壊れかけて、見えたもの― 心が揺らいだときにしか気づけなかったこと

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壊れかけた経験を、
今では「ありがたかった」と言えるようになりました。
土に触れ、野菜を育てる中で見えてきた「本当に好きなこと」。
そんな静かな気づきを、心を込めて綴りました。

壊れかけて、見えたもの
― 心が揺らいだときにしか気づけなかったこと ―


若いころ、心が壊れそうになったことがありました。
どこにも居場所がないように感じて、
この世から消えてしまいたいと思ったこともあった。

でも、そんなときに限って、
不思議と小さな“気づき”があったんです。
誰かのひと言だったり、
何でもない風景だったり。
それが、心の奥に、ふっと差し込んできた。


心が壊れかけていたからこそ、見えた景色。
正常に生きていたら、気づかないようなこと。


あるとき、ふと「土に触れてみたい」と思った。
ほんの気まぐれでした。
でも、スコップで土を掘り、小さな苗を植えた瞬間――
心のどこかが、すっと落ち着いたのを覚えています。

我を忘れて、ひとつのことに夢中になる。
無心で水をやり、草を抜き、育つ様子を見つめる。
それだけで、気持ちが整っていくのが不思議でした。


僕という人間が壊れかけたときに、
本当に「好きなこと」に出会ったのかもしれません。


家庭菜園なんて、どこでもできる“なにげないこと”です。
でも、僕にとっては命綱のようなものでした。

そしてある日、自分が育てた野菜を、
近所の“野菜嫌い”のおじさんが、
「これは美味いな」と言って食べてくれた。

それが、何よりうれしかった。
「僕のやってることには、意味がある」
そう思わせてくれた出来事でした。


壊れかけた僕を、救ってくれたのは
「すごいこと」ではありませんでした。
ただの土の手ざわりであり、
芽が出るのを待つ静けさであり、
誰かに「うまい」と言ってもらえる小さな喜びでした。


心が壊れかけたとき、
自分の“好き”がはじめて見えてくることがある。


強がっていたころには気づかなかった、
本当に必要なもの。
本当に自分を整えてくれること。
それらは、壊れかけた心のすき間から
そっと差し込んでくるようです。


いまの僕は、壊れかけた過去を否定しません。
あの時間があったから、
今の穏やかで、やさしい暮らしに出会えた。


壊れることは、終わりじゃない。
それは、**「自分の輪郭が浮かび上がる瞬間」**なのかもしれません。

だから今夜も、
静かな一日を閉じるこの時間に、
あのころの自分へ、そっとこう言いたいのです。

「おまえ、よう頑張ったな。よう、生きてくれたな」

 

※この記事はnoteにも投稿しています。
今日も読んでくださって、ありがとうございました。
土と暮らしの中で育ててきた言葉を、これからも大切に綴っていきたいと思います。

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