寂しさという贅沢

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若いころは怖くてたまらなかった「寂しさ」。

でも、歳を重ねた今なら、
これは“人を思う力”があるからこそ生まれる感情だとわかります。
今日は、そんな「寂しさ」を見つめなおしてみました。

若いころの僕は、「寂しさ」が怖かった。
誰かと一緒にいないと不安で、
ひとりで過ごす夜なんて、
何のためにあるのかわからなかった。

だから、つい誰かと予定を詰めたり、
話さなくてもいいことまで話してしまったり。
“埋める”ようにして生きていた気がします。


でも、今。
71歳の今になって思うんです。

「寂しさって、もしかすると“贅沢”な感情かもしれないな」って。


誰にも話しかけられない静かな午後。
窓辺の陽射しがゆっくり動くのを、
ただ見ているような時間。
昔の仲間の名前をふと思い出し、
ちょっと笑って、ちょっと切なくなる。

そんな時間が、
今では心地よく感じられるんです。


寂しさというのは、
誰かを想える心の証だと思います。

思い出があるから、寂しい。
絆があったから、寂しい。
何もなかったら、そもそも寂しくならないんです。


若いころの僕には、それが分からなかった。
寂しさ=孤独=ダメなこと、と思っていた。
でも違った。

寂しさは、心に余白があるということ。
そしてその余白は、人とやさしくつながるための“入口”なのかもしれません。


ときどき、こうしてnoteに書きながら、
自分がいかに「ひとりの時間」と仲直りできたかを実感します。

昔の僕なら、「こんな夜、耐えられなかった」かもしれない。
でも今は、静かな時間の中で、
心がふわっとやわらかくなるような気がするんです。


それは、寂しさという感情が、
「生きてきた証」になっているからかもしれません。


思い出す友がいます。
若いころ、自ら命を絶ってしまった友人です。
あのときの彼の心が、
今なら少しだけわかるような気がするんです。

寂しかったんだろうな。
誰にも見せられない寂しさを、ずっと抱えていたのかもしれない。

その友のことを思うと、胸が熱くなる。
あいつのぶんまで、生き抜いていこう。
そんな覚悟が、今になって静かに深まってきました。


寂しさという感情は、
人を思い、命を見つめ直す、静かな贅沢です。


たくさんの人に囲まれたにぎやかさも、もちろん大事。
でも、寂しさを抱けるくらい、心が自由になった今の自分も、悪くない。

寂しさを恐れなくなったとき、
本当の意味での“自分の時間”が始まるのかもしれません。


「寂しさを、味方につける」――
それは、人生の後半に訪れる小さな贅沢。

今夜もまた、静けさと一緒に眠りにつけそうです。※この文章は、noteで綴ってきた「感情と再出発」の連作シリーズの一篇です。

読んでくださってありがとうございます。
寂しさを、やさしく抱えながら生きていくすべての人へ。

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